Devilish Egocentric Pictures ver.7.0

日々の感動を大切にしながら生きている似非ブロガーが考えた事や感じた事を吐き出す場所

判らなくても一周だけ巡ってみて

自分に判らない事がある時、「自分はこの事が判って居ない」と云う事実については判っているとなにかと良いです。自分の無知に自覚的である状態ですね。

 何かの物事について「判らない」と云う情況に陥った際、全ての要素をひっくるめてなんでもかんでも「判らない」と感じてしまっている人をよく見かけます。ただ実はそこまで悲観的な状況ではないケースが多いし、「全てが判らない」と感じてしまうと糸口を見つける可能性さえも無条件で放棄してしまうので、あまり良ろしくないと思います。

自分の頭を使う機会

誰かに教えてもらったり導いてもらう事は一見ラクチンなのでつい求めてしまう解決方法です、そう、そう思うよね。ところがその手段を使う度に、自分で考える機会を一回分捨てた事になるのは間違いありません。

 ケースバイケースで使い分けるのが良いのでしょうけど、その瞬間瞬間にいつも冷静で居られるわけではありませんし(むしろ判らない事に遭遇するとほんのり混乱している)、人に頼ってその不安状態から脱出出来るならつい飛び付きたくなるのも判ります。痛いほどよく判ります。

 でも、とりあえずの答えを見つけるか、それとも考えたけど何も出てこないという状況に至るかして、せめて考えを一周巡ってみるくらいの事は自分でヤっておきたいものです。

 人に教えを乞うのは悪ではありませんが、せめて自分で答えを見つけようとした事実を提示出来ると、助けてくれる人は段々増えてくるものですから。

見る角度と二つ目の答え

一つの物事を見ていると、ある「理解」が生まれます。自分の中で一つ目の答えとして理解するストレートな「現象の把握」です。誰がみても概ね同じ理解が出来るようなものだとしましょうか。

 そこからただ見ているだけだと特に気にもならなかった事が、ある出来事をきっかけに別の角度から見てみる機会を得る事があります。二つ目の答えを得るタイミングです。

 そこに在る関係性において影響する側とされる側の立ち位置は不明でも、なにかしらの強い繋がりが見えてしまうとか。

 原因や理由を誤魔化してみたところで、言葉による否定以上に、連続する行動の結果から類推されるものがより確実に見えるケースとか。

 ある事件をきっかけに関わりのあった人とこれまで当たり前に見えていた人とを同一の時間軸上に並べて見てみたら、関連性を疑えないほどの如実な同期やリンクが見えてくるとか。

 気づかいや思いやりのコーティングから透けて見える、全く違った切り口の動機や思惑とか。

 結局は見えるものや聴こえるものを信じる他に確かなものなど無いので、自分に与えられる情報やそれまでの慣習、関係性から、「こうかもしれない」と思える(または「こうであって欲しい」と思える)想像をひとまずの真実として納得するしかないわけです。

最後に

言葉や文字や声にしている事だけが、実は全てではありません。見ているし感じています。その事を白日に晒すかどうかの選択は、その後の影響や結果を想像して慎重に考えなければならない場合もあるでしょう。時には見過ごす余裕も必要です。■■

殺してしまえば判らない

殺してしまえば判らない